『野口健と行く!富士山(青木が原)清掃隊』に参加して

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目次

1.樹海の清掃活動

2.
都レンジャーの設立

3.
青木ヶ原の樹海の自然

4.
樹海のトレッキング


1.樹海の清掃活動

2004年11月3日(火)は、朝から晴天で、絶好の行楽日和となりました。
私は、以前から参加したいと思っていました『野口健と行く!富士山(青木が原)清掃隊』に始めて参加し、青木ヶ原の樹海のゴミ拾いをしました。
事前に5000円の参加費を振り込み、リュックに飲み物、弁当、タオル、防寒着、雨具、軍手を入れて、ジーパンで帽子をかぶって家をでました。
7時半に新宿西口の東京三菱銀行前に集合し、8時にバスで富士山に向かいました。
バスは2台で座席はほぼ満席となり、参加者は100名に上ったようです。そのほとんどがはじめての参加者でした。

野口健さんは、1973年8月21日、アメリカ・ボストン生まれで、父が外交官であったため世界各地で幼年時代を過ごしています。
野口さんは、中学、高校は日本を離れ立教英国学院へ入学しましたが、勉学には熱中できず、「落ちこぼれ」だったそうです。
そんな時、偶然に書店で見つけた故・植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受け、登山を始めることになったそうです。
16歳で、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランの登頂を皮切りに、高校卒業後は、亜細亜大学国際関係学部に入学し、登山に必要な資金集めから事務手続きまで自らこなし、1999年3度目の挑戦でエベレストの登頂に成功し、十年の歳月をかけ、七大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で成し遂げました。
 その後、以前から気にかけていたエベレストのゴミ問題を解決するため、四年連続で世界各国の人たちと連携を図り、野口隊のリーダーとして清掃登山を実施しました。
 2001年には、日本隊に参加し遭難したシェルパ(登山隊の案内人・荷役人)の遺族を補償するためにシェルパ基金を設立すると共に、次世代の環境問題を担っていく人材の必要性を感じ、小中学生を対象とした「野口健 自然学校」を開校しました。
現在は、世界各地の国立公園や観光産業を見てきた経験から、日本の国立公園や環境保護と観光振興(エコツーリズム)のあり方について考える環境省や東京都の委員も務めています。
 また、富士山の世界遺産登録を一つの目標に掲げながら、真の目的は、環境行政の不備の象徴である富士山の環境問題を考えることにより、日本全国の国立公園などでの自然保護のあり方の問題点を行政サイドに提起し、「富士山から日本を変える」をスローガンに、日々、精力的に活動しています。
今回は、野口健さんが理事長を務めるNPO法人・セブンサミッツ持続社会機構と大阪証券取引所が主催で、地元のNPO団体・富士山クラブが協力してくれました。
清掃活動の後に、富士山クラブの案内で、青木ヶ原エコツアーを行ないました。
中央高速から河口湖を通って、10時半には、西湖近くの富士山クラブもりの学校に到着しました。


ここで、野口健さんと合流し、開会式が行なわれました。


河口湖町長、富士山クラブの代表などの挨拶やアドバイスを聞いた後野口健さんが 「「樹海ゴミゼロ作戦」は今年6月より11回の清掃活動を行い、ボランティア参加延べ人数約2700名と共に約45トンのゴミを回収しました。
自分も、酸素ボンベやテントの部品など多くのものを山に捨ててきた経験があります。
しかし、そのようなゴミがエベレストをゴミの山にしていることに気づきました。
ヨーロッパの登山家が、日本隊が残していったゴミを指差し、「日本は経済は一流だけど、文化、マナーは三流だ」と言いました。日本の登山家のことではなく、日本という国自体を否定されたのが、とにかく悔しかったのですが、でも散乱する日本語のゴミを前に、何も言い返すことはできませんでした。
「誰もやらないなら自分でやってやる、そんな気持ちで、清掃登山をすることにしました。
世界の登山家から富士山は汚れているとの指摘を受けていますが、日本人として恥ずかしい思いをしていました。
そこで、日本の最高峰である富士山をきれいにすることから始めようと決めたのです。
始めは、粗大ゴミが多く大変な作業で、こんなゴミ拾いをやっていてもいたちごっこで無駄ではないかと思いました。
しかし、とにかく続けようと5年間頑張りました。
今では多くの方がこの活動に共感し参加してくださるようになり、輪が広がりつつあることを実感しています。
皆さんは本日拾ったゴミをトラックで運ぶことで作業が終わりますが、富士山クラブの皆さんは、そのゴミを袋ごとに分別して、処理施設に持っていく作業があります。
拾っただけでは終わりではなくそれを処理して初めて終わることもご理解してください。」

と熱い思いを語ってくれました。

参加者は、配られたゴミ袋を手にして、バスに戻り、樹海に向かいました。
ゴミの分別は、@空き缶、A瓶やガラスなど、B燃えるゴミ(プラスチックなども含む)にゴミ袋を分けて行ないました。
粗大ゴミを見つけたときには、富士山クラブの方に連絡することになりました。
道路沿いにバスを降りて、樹海に入り、谷のように窪んだ所に入り込み、土の中に埋まっているゴミを掘り起こしながらの作業でした。

掘れば掘るほど出てくるビニール袋をはじめとして、缶や瓶や瀬戸物などいろんな種類のゴミに驚きながら、軍手を真っ黒にしながらの作業をしました。
約1時間くらい作業し、集めたゴミを谷から上に手渡しで送り、待機しているトラックに積み込みました。
作業終了後、全員で記念撮影をして、バスに戻り、もりの学校まで行き閉会式を行ないました。

2.都レンジャーの設立

閉会式では、主催者の挨拶、富士山クラブの挨拶に次いで、野口さんが講演してくれました。
その中で、興味深く聞いた話が、都レンジャーを設立するまでの経過でした。


「世界各地の自然保護運動に果たすレンジャーの役割がもっとも大切だと痛感していましたので、環境省がやらないのなら、小笠原と言う非常に貴重な自然を抱えている東京都が率先してレンジャーを設立すべきだと言うことを石原知事に進言する行動を起こしました。
以前から、東京都が主催する「エコツーリズム・サポート会議」の委員を務めており、その関係で石原都知事と白神山地へ視察に行くこととなった時、夜に知事と飲むチャンスがあり、僕は「今しかない」と知事に東京都独自のレンジャー制度を提案しました。
知事、国は動かない。環境省のレンジャーは何もやっていない。
東京都の自然を都が守るならば、東京都のレンジャーが必要です。もし仮に都で独自のレンジャー制度を始めれば、国は焦る。国も動かざるを得ない。
それこそが知事の仰っている『東京から日本を変える』に他ならない。
東京都独自のレンジャー、名づけて『都レンジャー』、知事、『都レンジャー!!』『都レンジャー!!』『都レンジャー!!』といい続けました。
知事は黙って聞いていて、途中で席を立ってしまい、「ああ、失敗した」と思っていたのですが、知事はなんと翌日の記者会見で、東京都は来年から『都レンジャー』を始める。
初代隊長は野口健を任命すると発表してしまったのです。
これには本当に驚きましたが、石原都知事の英断に感謝したいと思っています。」

もう一つ、ウンチがゴミになると言う話も興味深く聞きました。
「富士山は日本のシンボルで、世界的にも有名な山で、世界から登山家が集まります。
でもその山頂は惨憺たるゴミの山の状況でした。
山小屋のトイレの近くから、雪の跡みたいなものが続いています。
それは岩肌に乾いて貼りついたトイレットペーパーでした。
トイレからは長年、屎尿が垂れ流され、その際に、岩肌にペーパーが絡みつき、太陽で、カピカピに乾燥して岩肌の一部になってしまっていた。
富士山にはシーズンには三十万人から四十万人もの人が集まります。
しかし屎尿は山小屋のトイレから垂れ流しの状態が続いています。
それが、富士山の湧水となると思うと、飲んでいた富士山の天然水が飲めなくなりました。
今は、バイオトイレが多くの山小屋で作られるようになり、徐々に問題は解決していくようになりましたが、人間の排泄物もゴミになるということは理解する必要があると思います。」
等の話を聞きながら、なるほどと思いました。
閉会式を終えたのは、13時前でした。

もりの学校からバスのところまでの間に見える富士山の姿も雄大でした。
天気も良く、なだらかな曲線美がなんとも美しく感じられました。
また、秋を感じさせるススキもその姿に色を添えているようでした。
食事のために野鳥の森公園にバスで行きました。
野鳥の森公園は、樹海への入り口となっていました。
ここは、一面が芝生で覆われていて、樹海とは切り離された空間となっていました。
参加者は思い思いの場所を探して、昼食を取りました。
所々に見事なもみじが紅い葉をつけていました。


3.青木ヶ原の樹海の自然

富士山は、何回もの噴火を通じて今のような形になったとされています。約70万年前に小御岳火山が誕生し、それが噴火を繰り返して成長し、海抜2300メートルほどの山になりこれが現在の富士山の第一歩となったのです。
次いで約1万年前に古富士火山が大量の溶岩を流出させる噴火を繰り返しました。そして、約5000年前の噴火により現在の富士山の形になったと考えられています。
すなわち、現在の富士山は、小御岳火山と古富士火山の肩車に乗った格好になっているのです。
歴史に登場する富士山の3大噴火と言われるものがあります。
@延暦19年(800年)の大噴火は、当時の東海道であった足柄路を埋没させ、約35日間の噴火活動で大量の火山灰が降ったとされています。
A貞観6年(864年)の大噴火は、有史以来の最大の噴火だったようです。この時、広大な青木ヶ原の溶岩や西湖と精進湖の分断などが起こり、富士五湖が成立しました。
B宝永4年(1707年)の大噴火は、山頂の東南の寄生火山が爆発し、現在の宝永山ができました。地震と地鳴りを伴った噴火で、火山弾が四方八方に降り注いだようです。火山灰は、偏西風に乗り川崎や横浜まで到達したようです。
富士山の北麓にある5つの湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)は富士山の噴火によってできたせきとめ湖です。
かつては、宇津湖とせの海の2つであったそうです。
せの海から本栖湖が分かれ、貞観の大噴火により西湖と精進湖がさらにできたそうです。
したがって、この3湖が地底湖でつながっているとも言われています。
これら3湖はいずれも標高が902メートルと同じであり、一つが減水すると他の2湖も減水するという不思議な事実があります。
いずれにしましても、元は一つであったこと、透水性が高い溶岩で遮られたことを考えれば不思議ではないでしょう。
ついでに、西湖と本栖湖は、氷結しないが、精進湖は氷結するという事実があります。
これは水深の違いで説明がつくそうですが、前者では水深が深いため水の対流により氷結する温度にいたらないということです。
もう一つ、富士山は山頂から900メートルまでに、地表を流れる川が全くないという不思議な山でもあります。
降った雪や雨は年間20億立方メートルで、東京都の年間の水使用量の1.5倍に当たる量が地下に吸い込まれ伏流水となって山腹や山麓の裾野に至って地表に現れています。
それが富士五湖やたくさんの湧水なのです。
ちなみに、忍野八海は、1万年前に溶岩によって誕生した湖でしたが、様々な変化によって現在では、かつての大きな湖の湖底にあった名残をとどめている湧水源があるのみです。

青木ヶ原の樹海は、およそ1200年前、富士山噴火によって流れ出た溶岩流で埋め尽くされ、そこにコケが生えやがて樹木とくに水分が少なくても育つ栂やヒノキなどの針葉樹が溶岩の上を根が這いずり回りながら長い年月をかけて作り上げられた樹林帯です。
これは、富士山麓の北西域の、本栖湖、精進湖、西湖に広がるおよそ3000ヘクタールの広大な原始林で、そこには多数の溶岩洞窟が点在しており、名所ともなっています。
この洞窟は、流動性に富む高温の玄武岩質の内側の溶岩が流れ出し空洞になってできたものです。
富士山には104の溶岩洞穴が在るといわれています。
また、洞窟とは別に、溶岩樹型と言うのもあるそうです。
大木の生えた林に溶岩が流れ込み、樹木を取り囲み、樹木が燃え尽きる前にその鋳型が残ります。それが、溶岩樹型です。
 今回のトレッキングでは、洞窟などは見ませんでしたが、トレッキングの終点には、こうもり穴があり、総延長350メートルの最大規模の洞窟があります。
こうした地形や植生は、古代の富士山もこのような状況であったと考えられ、昔の富士山を今に伝える貴重な資料とも言えます。

4.樹海のトレッキング

昼食後、14時から、富士山クラブのボランティアの方の案内で、樹海に向かって歩き始めました。
入り口のところは一面芝生でしたが、その到る所で芝生の掘り返しが見られました。
これは野生の猪がミミズを探してこの芝生を掘り返すそうです。地元ではその猪を狩っているそうです。
芝生を作ったのは人間です。その芝生を維持するために肥料をやります。
そうするとミミズがたくさん集まります。樹海には猪の餌はあまりありません。
ミミズは猪の大好物です。だから、芝生を掘り返してミミズを食べるんです。
その猪を人間が害だからと狩っています。人間と猪との共存共栄の道はないのでしょうか。
「このことを皆さんはどのように感じられますか」と案内の方が問いかけました。


いよいよ樹海に入り、こうもり穴に向かって歩き始めました。
遊歩道が整備されていて、道にはチップがたくさん敷き詰められているので、歩きやすくなっていました。
樹海の回りの木々は、紅葉していましたが樹海の中の樹木は紅葉していません。というよりも樹海には常緑樹がほとんどで、落葉樹は育たないようです。
樹木は溶岩の上に土もないのに、成長していました。溶岩の周りを根が縦横無人に這い回っていました。
ほとんど土がない中で、どうして成長できたのでしょうか。
生命力を感じました。



「この辺の溶岩層の深さは、130mくらいあるそうです。溶岩は水を通しやすく、水分を通してしまうため、樹木に必要な水分がすぐ浸透してしまいます。土がなく、水も溜まらないようになっているのになぜ木が育ったのでしょうか。この秘密は、コケなのです。木の周辺や岩に生えているコケがこの厳しい環境から樹木を守りはぐくんでいるのです。」
案内役のボランティアの方が解説してくれました。
コケが樹木を支えているというのには、いささか驚きました。いま歩いている下、130mも溶岩によってできているとは、とても思えませんでした。約1200年の歳月がこの自然を豊かなものにしたと思うと自然の力の凄さを感じざるを得ませんでした。
実際歩いてみるとそれほど暗くはありませんでした。樹海に入る人の中には、マツタケを取りに来る人もいるそうです。
ここには、赤松が生えていると言うことからも判ります。赤松とマツタケの菌とは共生関係にあるそうです。


溶岩が湖に流れ込み、その時の蒸気圧で、溶岩が押し上げられ、そのときに空洞ができ、長い年月で溶岩の一部が陥没し洞窟となったものが多く見られました。
この溶岩には磁鉄鉱が多く含まれているため、磁石が聞かなくなり、遊歩道を外れると方向がわからなくなるようです。
方向がわからなくなった場合には、太陽の位置を見ながら歩くことが大切になります。
樹海の生き物については、シジュウカラの声が聞こえたものの静寂の中に人間の声と足音が 響いていました。
案内の人が、
「これはリスが松の実だけ食べて残した跡です。」
実を食べたとうもろこしのようになった松の実を取って言いました。
リスは松ぼっくりを土に埋めておいて、後から探し出して食べます。食べ忘れたものから芽を出すこともあるそうです。動物と植物の共生関係でもあります。
また、風雨で倒れた樹木も、新しい芽を育てる土となります。倒木の上にたくさんのコケと新しいいくつもの新芽が育ち始めていました。
樹木は、溶岩の僅かな隙間にある土の上や倒木などの朽ちた木の上に根を剥き出しにして生きていました。
また、樹木も曲がりくねって『やまたのおろち』のように這いずり回っている木もありました。
いずれも、厳しい自然の中で適応して生きているものでしょう。


樹海の中を1時間くらい歩き回りようやく『西湖こうもり穴』の出口に着きました。
ここで、野口さんやスタッフの方と別れて、一路東京に向かいました。この次は洞窟を見てみたいと思いながら樹海を後にしました。

参考:
@ここまで知りたい 富士山大雑学 諏訪彰監修 廣済堂出版 (昭和58年)
A大いなる自然の検証 富士山 読売新聞社編 (1992年)


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Copyright 2004 川島忠興